2015年5月31日日曜日

亡き父のルーツを訪ねて。呉、再び④ ”千福一杯いかがです~♪”の三宅本店の「酒工房せせらぎ」で工場見学。「三宅屋商店」で試飲の後、亡き父が少年時代を過ごした家を探しに急坂を上って平原神社へ

呉冷麺発祥の人気店珍来軒で大満足のランチの後、再び広電バスの1日乗車券を使って更に本通りを北へ7丁目まで。

千福一杯いかがです~♪”のCMソングで知られる日本酒千福の醸造元三宅本店に来ました。


1923(大正12)年に建造された「酒王センプク」えんとつ
耐熱性白レンガを使用した高さ26mの煙突は、2004(平成16)年まで使用されていました。


工場見学は事前の予約が必要です。
私はあらかじめ電話しておきました。


工場見学施設酒工房せせらぎ


男性社員が案内係。
まずは入口の杉玉の意味から説明します。


総延長130mのガラス張り見学通路を歩きながら、最新設備でのお酒の充てんの様子が見学できます。
残念ながら休日でしたので、工場はお休みで機械は動いていませんでしたが、丁寧な説明を聞くことができました。
また、この見学コース沿いに、今では珍しくなった「軍盃」「銚子」など約2000点が展示されており、間近で見ることができます。


軍艦浅間に積まれた清酒呉鶴が赤道を通過する220日余りの航海の後でも、その品質に変化が無かったことの証明書。
当時、軍からの証明書は大きな名誉だったことでしょう。


東京大正博覧会において清酒吾妻川が金牌を受賞した賞状。


こちらは千福で最も高価な限定大吟醸。
30%磨きの手絞りで、なんと一本30,000円。


最後は映像ホールに展示された数々の貴重な史料を見学。


満州にも工場があったそうです。
やはり呉の酒蔵メーカーだけに、軍との結びつきも強かったのでしょう。


工場見学を終えて、併設されているギャラリー三宅屋商店に案内されました。
お楽しみの試飲です。


昭和のレトロな展示品が並ぶショップです。
千福のお酒はもちろん、お土産になる限定グッズがいっぱい。


案内して下さった男性社員の方が、丁寧に説明しながら試飲させてくれます。


「どうぞ、何杯でもお好きなものを」
と嬉しい話。


飲み比べた中では純米大吟醸無濾過生原酒が一番気に入りました。
「これはこの工場限定品なんです。最近広島駅の名店街に2号店が出来たので、そことここの2カ所だけの販売なんです」
と教えて下さいました。
「だったら新幹線の駅で買いますね」
これから今回の旅の最大の目的を果たすために、身軽である必要があるからです。


「ごちそうさまでした!帰ります」
とお店の方に声をかけました。
「あ、ちょっとお待ちください!」
と女性店員に呼び止められて渡されたのはお土産。
ワンカップの千福。
まさに千福一杯いかがです~♪」ということでしょう。




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昼総合点★★★☆☆ 3.3

工場を後にして、平原浄水場のある山の上へと足を向けます。
生ビールと無料試飲とこの暑さで酩酊している私にはかなり辛い登り坂。


私の父が幼少期を過ごした家がこのあたりにあるという伯母の話を聞き、どんな場所で父が育ったのかどうしても知りたかったからです。
90を超す伯母の記憶はかなり曖昧です。
「吾妻町小学校の近くで、平原神社のすぐそばの県道174号線沿いだった」
というのです。
しかしその吾妻町小学校はもはやなく、唯一存在しているのは平原神社だけ。


おそらく神社は当時と変わらない佇まい。


きっとこの境内で父は遊んだのでしょう。


昭和7年建立の門柱は見ているはずです。


神社の前を走る県道174号線を、東になぞってみました。


随分と急な斜面。
しかも軍港からはかなり離れています。
この高台から祖父はいったいどうやって海軍に通ったのでしょうか。


西になぞると、道はカーブして呉市水道局平原浄水場へと続きます。


昭和から平成にかけて建築されたと思われる家屋が立ち並んでいます。
伯母の記憶は、この風景からは蘇らないかもしれません。
しかしこの東西の道沿いのどこかに間違いなく父の家があり、祖父母は住んでいたのです。


大阪に帰ってから、伯母と一緒に暮らす従兄に写真を送って、伯母に見てもらいました。
やはり伯母は平原神社以外はわからなかったようです。
しかし、祖父がどうやって呉総監部に通っていたかはわかりました。

山口県の日本海側の小さな村の農家の次男として生まれた祖父は、もちろん家督を継ぐ立場にありません。
思うところあってか、江田島の海軍士官学校に入校し、海軍士官となりました。
日露戦争に従軍し、大きな功績を上げたと聞きます。
猫の額程の畑を本家から分けてもらって分家を持ちましたが、そこが私の父の生家です。
呉には転勤で家族で暮らし始めたそうですが、戦火が激しくなり、父たちは祖父を呉に残して山口に疎開。
その後東京の大学に通い始めた父は、身体が弱かったため兵役検査に不合格となり、工場での学徒動員中に終戦を迎えたそうです。
健常であれば戦地に駆り出され、あるいは特攻隊として命を失い、私は生まれていなかったのでしょう。

終戦時は海軍少佐で掃海艇の艇長だった祖父は、朝晩サイドカーの送迎があったそうで、こんな山の上からどうやって通っていたのか、という謎が解けました。
その送迎を父は大変誇りにしていたと伯母から聞き、そんな自慢げな小学生の顔を思い浮かべて私も嬉しくなりました。
私には厳しかった父ですが、そんな無邪気な少年時代があったのです。




もう一度海を見に来ました。
小学生で兄を事故死で、母を病で立て続けに亡くし
「もう、自分にはこれからお母さんはいないんだなと思った」
と、社会人になった私に、初めて本心を語ってくれた時の父の声が聞こえてくるようです。
祖父に後妻に入った人を本当の祖母として孫たちに信じさせるため、その人が亡くなるまでは、呉で亡くなった本当の祖母の話は親戚の大人たちの間でトップシークレットだったのです。
私にとってその人は、結果的には血が繋がっていませんでしたが、私の中では祖母に間違いありませんでした。
その人を本当の母のように労わっていた父の大きさを改めて感じます。


父が育った家は見つかりませんでしたが、そのすぐそばには行くことができました。
漠然としたイメージだった呉と、父の少年時代が、自分の中で確かに身近なものになりました。


まだまだ見たいところはありますが、広島に戻らなくてはなりません。


27年前に亡くなった父が
「よく来たな」
と言ってくれた気がしました。

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