海岸沿いに一般道を走りながら、富山・新潟県境を目指します。
このあたりの名物のたら汁を売る店が立ち並んでいます。
前方に北アルプス山脈が海まで迫っているのが見えます。
この先に、かつて北陸道最大の難所として通行が困難を極めた親不知があります。
この先に、かつて北陸道最大の難所として通行が困難を極めた親不知があります。
糸魚川市。
新潟県に入りました。
新潟県に入りました。
県境を流れる大平川。
今日のランチはここで名物のたら汁を食べようという計画。
しかしモツ煮込も併記されていて、急に心がぐらついて来ました。
道の駅とはいいながら、コンビニライク。
それもそのはず。
店舗はヤマザキショップなのです。
道の駅らしくお土産コーナーも。
レジの横から食堂に繋がっています。
たら汁定食、と決めて来たのですが、ベストメニューランキングを見ると、入口の看板に書かれていた通り、日本一うまいモツ煮込み定食とたら汁定食がワンツーフィニッシュ。
悩んだ末にランキング1位のモツ煮込み定食に7位のたら汁単品を組み合わせることにしました。
厨房には地元のおばさんたちが三人働いています。
食券の半券を渡して、テーブル席で待ちます。
お店はトラック野郎や地元客でそれなりの賑わい。
地元客同士の社交場にもなっています。
なんともほのぼのとしたロードサイド大衆食堂といった風情。
新潟の新米ご飯がおかわり1杯サービス。
売店で購入したアルコール類の持ち込みは自由だそうです。
料理が出てくるのを待ちながら、卓上のメニューを眺めます。
きっとどの料理も家庭的で美味しいのだろう、と想像できます。
7、8分待って出て来ました。
完全に失敗です。
頼み過ぎました。
絶対食べられそうにありません。
ちょうど一年前、阿蘇で高菜ご飯とだご汁とモツ煮込みを頼んで大失敗したときの再現となりました。
たら汁は単品だから小さいだろうというのは、私の都合のいい勘違い。
モツ煮込みも半端ない量です。
小鉢とお新香。
当たり前ですが、ご飯はデフォルト大盛りのトラック野郎仕様。
地元新潟の新米ご飯。
グズグズ言っていても仕方ありません。
まずはモツ煮込みから取り掛かります。
たっぷりと七味を振って。
もちろんオン・ザ・ライス。
味噌にモツの濃厚なエキスが滲み出て抜群に旨い!
一方のご当地名物たら汁。
小ぶりとはいえタラが丸ごと一尾入っています。
まずは頭に着手。
目玉や頬など、一番旨い所から。
そしてこれもオン・ザ・ライス。
しかし、小骨が多いタラは、オン・ザ・ライスでワシワシと食べるには不向きであると発覚。
ゴボウと葱が入った素朴な郷土料理。
こちらも味噌仕立てですが、これまたタラの旨味が滲み出して、実に旨い汁。
こうなったら「汁かけ」という禁断の技で。
もちろんモツ煮込みも「汁かけ」で。
食べても食べても減らないタラが恨めしく思える贅沢な話。
最後はぶっかけ飯。
40分近い大相撲となりましたが、なんとか寄り切りました。
汁を完飲できなかったのが、悔やまれます。
バイクに跨れないくらいお腹がパンパンです。
ここから先が断崖絶壁が続く親不知。
江戸期以前、多くの旅人の命を奪った北陸道最大の難所です。
国道8号線は親不知の断崖絶壁のどてっ腹をくり貫いた洞門の中を急カーブで進みます。
連続する洞門を抜けた所にある駐車場にバイクを止めて、今は見学用の遊歩道になっている旧道へ向かいます。
その先に海に突き出している高架橋は北陸自動車道です。
現代の建築技術をもってしても、これほどの大工事でないと通り抜けられない難所。
私は小学生の頃、教科書か図鑑でこの場所を知り、その名前の由来と、恐ろしい断崖絶壁の写真に、いつか訪れてこの目で見てみたいと思っていました。
ここは飛騨山脈(北アルプス)の日本海側の端に当たります。
断崖は飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたもので、約15km程の区間。
今から八百年前の源平盛衰の昔、越後の五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた平頼盛の後を追って、奥方は京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かかりました。
しかし、その際に、連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次の歌を詠みました。
親知らず 子はこの浦の波まくら
越路の磯のあわと消えゆく
以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになりました。
この難所にも大懐・子懐や大穴・小穴と呼ばれる天然の避難所があります。
大懐から大穴までは、親不知中最も危険なところであり、走り抜けないと波にさらわれることから、長走りと呼ばれています。
また、小穴を過ぎると、絶壁に「南無金剛遍照」と刻まれてあり、ここから西は、走り込みと呼ばれ、ここまで来ればもう安心といわれました。
今は遊歩道となっている明治16年に開削された旧道に沿って歩いてみます。
この道は、昭和41年に国道8号線天険トンネルが完成するまでは現役で使われていました。
途中の岩盤に「如砥如矢」(とのごとく やのごとし)という文字が彫られています。
ここは、親不知で最も通行が困難な「天険」の真上、高さ約80mの崖の上です。
かつて旅人たちは、波打ち際を通る当時の北陸道を命がけで通行していました。
絶壁を人力で切り拓いてこの道が完成したのは1883(明治16)年。
その喜びを岸壁に刻んで表したのが「如砥如矢」です。
砥石のように滑らかで、矢のようにまっすぐであるという意味で、この工事に力を尽くした青海(現糸魚川市)の人、富岳磯平の書と言われています。
悲しい歴史や、先人のたゆまぬ努力などの歴史探訪になると、ついついじっくり見てしまうのが私の癖。
いつの間にか時計は15時。
これから更に東に足を伸ばす時間はありません。
近くのビジターセンターの風呂が眺めが良いと聞いてひと風呂浴びて帰ることにしました。
親不知交流センターまるたん坊。
浴室の窓からは親不知の海が見えます。
今日は天気も良く、穏やかです。
市町村合併によって、予算も回らなくなり、親不知のことは人々の記憶から消えていくだろうと寂しそうに語っていたのが印象的でした。
「みんな高速をトンネルで通り抜けていくし、親不知インターっていう名前を聞いても、それが何なのかわからないでしょうね」
既に、親不知の歴史遺産としての記憶は、確実に風化を始めているというのが、実際に訪れた私の印象です。
私も、富山への帰路は親不知インターから北陸道へ。
親不知の険しい崖を見ることも無く、長いトンネルを潜り抜けました。
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