しかし私にとっては、小学校の社会の教科書で出会って以来、50年近く記憶に鮮明に焼き付いている場所なのです。
正式名称は端島(はしま)と言い、長崎半島から西に4.5キロ、長崎港から南西に約19キロの沖合に位置しています。
4社が運航する軍艦島上陸ツアーの中で、ガイドの説明がわかりやすく、値段も安いと一番評判が良かった㈱軍艦島クルーズを予約しました。
乗船手続きを済ませ、港へ。
エネルギーを石炭に頼っていた近代において、炭鉱は富国強兵日本の重要な戦略的資産。
1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、海底炭鉱の可能性を秘めたこの小さな岩礁を、1890年(明治23年)に三菱合資会社(後の三菱財閥)が買い取って以降、本格的な海底炭鉱として操業が開始されました。
軍艦島は2013年に世界文化遺産に推薦が決定した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産の一つとして、また新しい歴史を刻もうとしています。
そんな歴史に触れることができる石炭資料館のある高島に、ツアーは立ち寄ります。
軍艦島に関するガイドさんのわかりやすい説明を受けて再び船に乗り込みます。
遂に軍艦島が見えてきました。
感動で胸がいっぱいになります。
いよいよ軍艦島が近づいてきました。
南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積約63,000m。
東京ドーム一個分よりも少し大きい程度のこの島は、岸壁が島全体を覆い、高層鉄筋アパートが立ちならぶその外観が三菱長崎造船所で造られた軍艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになりました。
いよいよ接岸です。
小中学校や鉱員住宅があった島の北東側。
岩礁の高台。
左側が貯水槽、右側が三菱の幹部社宅があった3号棟です。
水が最も貴重だったこの島で、唯一室内風呂があったのがこの3号棟。
何時の世も格差はあるものです。
ましてや今から50年以上前の話。
接岸する岸壁は当時のままだとか。
いよいよ上陸です。
岸壁を降り立つと小さなトンネルに入ります。
左手の石積みは天川(あまかわ) と呼ばれる石灰と赤土を混ぜた接着剤を用いた護岸造りの工法。
軍艦島独特の景観を生みだしています。
トンネルの途中に立入禁止の分岐があります。
その奥にトンネルが伸びています。
実はこちらが本来のトンネル。
炭鉱施設の下を通り抜け、岩礁の西側にある居住区へと通じる唯一の道。
見学用に設けられた現在のトンネルを抜けると、広場になっています。
ここが第1見学広場。
近くで見ると、崩壊がかなり進行しているのがわかります。
遠くには貯炭ベルトコンベアーの支柱が見えます。
思いの外雑草が少ないのは、このエリアがボタで埋められたから。
雑草すら拒む厳しい環境なのです。
緑の無い島では、当時アパートの屋上に土を運び、米や野菜、花などを育て、安らぎの空間を作るとともに子供の情操教育に役立てたといいます。
レンガ造りの建物は鉱山の中枢であった総合事務所。
このレンガは海水の塩分を豊富に含んでいるため普段は真っ白だそうです。
今日は、昨日の雨で表面の塩分が流されたので、本来の色が見えているのだとか。
毎日違う表情を見せる軍艦島です。
右手に見える建物が第二竪坑坑口桟橋跡。
鉱山施設はほとんど崩壊していますが、主力口だった第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分がかろうじて残っています。
この上で鉱員たちは火の元を持っていないか、健康状態は大丈夫かの確認を受けてから海底炭鉱へと潜っていきました。
階段が黒いのは鉱員たちの足の裏に染み込んだ石炭の色。
かつてこの島で働いていた人が見学に来た時に
「どこが最も当時と同じで変わっていませんか?」
と聞くと、皆さん異口同音に
「この階段だ」
とおっしゃるそうです。
気温30℃、湿度95%。
海底600mまで降下し、そこから更に坑道へ。
最深部は海底1000m。
海水が滴り、ガス爆発や落盤と背中合わせの危険な仕事。
「ケツ割れ」
という言葉があったそうです。
この鉱山での過酷な労働に耐えられず、島を離れる人たちは、そう呼ばれたのです。
過酷な労働ゆえに報酬も良い仕事のため、多くの人が一旗揚げるべく島にやってきたといいます。
しかし現実は想像以上にとても厳しかったのです。
様々な事情を抱えてこの離島にやってきて、帰る所の無かった人こそが島を離れられなかったのかもしれません。
続いて最後の見学場所、第3見学広場に向かいます。
1958(昭和33)年に完成した25メートルのプール。
水の確保はこの島の最大の課題でした。
飲料水は当初海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれ、高台の貯水槽に蓄えられて数か所の共同水栓から配給されるようになりました。
しかし、風呂の水は海水を沸かしたもので、上がり湯だけしか真水は使えませんでした。
もちろん高級幹部が住む3号棟以外は室内風呂はありませんでしたから、島の住民のほとんどは公衆浴場を利用していました。
1957(昭和32)年には対岸の三和町から6,500メートルの海底送水管が敷かれ、ようやく給水制限は無くなったのです。
しかし、軍艦島の人は水に対する特別の思いがあったのか、このプールには海水が満たされていました。
工場跡地の向こうに見えるのが居住区。
1916(大正5)年に建てられた正面の30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造りの高層アパートと言われています。
鉱員社宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。
今でいうドラッグストアのような、各種日用品や食品を売っていたようです。
その左手のへの字型の31号アパートは、 1957(昭和32年)建設。
地下に共同浴場を備えていたそうですが、その浴場のお湯はいつも真っ黒だったとか。
1階には郵便局や理髪店も設置されていました。
また、この建物は波の荒い島の西岸の防波堤の役割も兼ねていたそうです。
最盛期には約5,300人もの人が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。
世界一の人口密度の町が、実は長崎の離島にあったことになります。
狭い島で多くの人が暮らすためには、上に伸びていくしか術が無かったのです。
廃墟と化した住居群。
30号アパートと31号アパートの間の階段を抜けると、その先には島唯一のメインストリート、端島銀座があります。
食糧などが船で運ばれてくると、青空市場で賑わったと言います。
炭鉱は24時間操業なので鉱員の勤務は三交代制。
この島の母親は、どんなに夜遅くても父親が出かける時は必ず子供を起こして挨拶をさせたといいます。
二度と会えない、最後の姿かもしれないからです。
ガイドさんによれば、かつてこの島で育ち、暮らした人がツアーで見学に来ると、廃墟となった建物を前に無言となり、写真を撮ることもないといいます。
多くの人が狭い島に暮らし、賑わいが絶えなかった島と、今の現実のギャップに心の整理がつかないのかもしれません。
ここでガイドさんの説明は終了。
今歩いてきた220メートルの見学路を、それぞれのペースで歩きながら岸壁まで帰ります。
ぽっかりと穴の開いた堤防。
修復されることのないまま、ゆっくりと、着実に人間の工作物は自然へと帰っていきます。
7月の台風8号では岸壁そばの堤防が決壊。
見学施設も破壊され、その復旧作業のために8月は上陸が出来ませんでした。
今日はとても海が凪いでいますが、一年の三分の二は上陸出来ないと言う過酷な自然条件。
私は自分の幸運に感謝しました。
第2見学広場で説明を受けた第二竪坑坑口桟橋跡の昇降階段部分を裏側から見てみました。
大自然の猛威に、なすすべもなく崩壊する建造物の中で、保全のための補強もされていないこの階段だけが閉山当時の姿を留めているのは、毎日死と隣り合わせだったのべ何十万人という鉱員たちの怨念にも似た情念が宿っているからではないか、と思いました。
「この島を修復、保全する技術は、いくら資金があっても不可能だ、と言われています。軍艦島は日々その姿を変え、二度と同じ姿を見る事はできません。ですから、今日、皆さんが見た軍艦島は二度と見ることが出来ないと思って、しっかり心に焼きつけて帰って下さい」
とガイドさん。
その一つの証が正面に見える小中学校。
7階建ての7階部分の柱が折れて屋根が崩落しています。
一昨日の出来事だそうです。
日本近代の成長を支えた石炭。
高度経済成長期に国のエネルギー政策は石炭から石油に転換し、1974年1月に閉山、4月に無人島となりました。
船に乗り込み長崎港に向けて出港します。
三菱の力により、日常生活に必要なあらゆるものが整っていた軍艦島に唯一無かったのが火葬場と墓地。
軍艦島のすぐ北にある中ノ島にその施設は設けられていました。
墓参りは叶うのでしょうか。
時代の転換期を生きたこの島と、島民。
100年以上にわたり、人間の力で自然を変え、建物を造り、穴を掘り、石炭を採掘し、そして今それらはゆっくりと、着実に元の姿に帰ろうとしています。
人の営みの儚さと、自然の威力を痛感した旅となりました。
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